昭和47年10月28日 朝の御理解
御理解 第44節
『狐 狸でさえ神に祭られる事を喜ぶと言うではないか人は万物の霊長なれば死したる後神に祭られ神になる事を楽しみに信心せよ。』
信心の絶対の焦点とでも申しましょうか、金光さまの御信心を頂いておる者が皆んなここのところに、焦点を置いて信心させて頂いたら、愈々有難い事になると思う。死したる後神に祭られる、神になる、その事を楽しみに信心せよと仰る。信心の一つの最高の目標だと思うですねえ。そこでそんなら金光さまの信心をしておれば誰でも、神になれると言う意味じゃないですよね、それを楽しみに信心してなかったとするなら、もう神になるとか神に祭られると言う事はありません。
神に祭られるとか神になると言う事は、これは人が祭るとか人が なすのではなくて、神さまが認めなさるのである。子供によくよく頼んで神さまに祭って下さいと、そんなら神さまに祭っちゃろうと言うて神になると言うそう言うものじゃない。まあ霊の神には皆さんなられます、金光さまの御信心さえさせて頂いておれば、又は教徒であれば霊の神としてのお祭りはして頂きますけれども、ここで言うのはそう言う神ではなくて、神に祭られる神になると言う事。
これは人間がひと度その気持になって、その精進をさせてもろうたら人間は神に なれれるものを、ここでは万物の霊長なればと言うておられます。人間は万物の霊長なれば、言わばなれる資格を持っておる、私共は精進させて頂いたら。そこでです、私共がどう言う精進をさせて頂いたら、神になり神に祭られる程しの事になるかと言う事になります。一生朝参りを続けられた、それはなる程、おかげを受けます、辛抱の徳を身に受けますけれども、そう言う事だけでない。
昨夜遅くここえ出まして、神さまにお礼を申させて頂きよりましたら、『我情我欲をとれば問題はなくなる』と頂いた。問題が有る時には、必ず我情我欲が有る時だからこう言う信心に、取り組ませて頂く事がとりもなおさず、私は神になる、神に祭られる、これはもう絶対だと思うです。それは普通で言う、問題はたくさん有ります、けれどもそのもう、その問題が問題でなくなってくる。
我情我欲を離れますと、例えば昨日ここで午後の奉仕をさせていただいとりましたら、電話がかかってきた、東京のお父さんからであった、もう大祭前からみえとります、丁度私が御本部参拝の明くる日位からでした、熊本に行っておりました。大変な大家らしいです、熊本城を建てられたと言う方屋敷には庭に山があり谷川が有ると言う、そこの屋敷内からいろいろの発掘物、考古学の資料になるようなものがたくさん有るそうです。そうゆう言うならば、偉い方の家に行っておられました。
それで昨日そちらの奥さんを伴のうて帰って来ておるからと、久留米から電話がかかってきた。久留米迄来とると。そこで私それを皆んなにお客さんがみえるから、お掃除をしておきなさい、どこでも片ずけておきなさいと言うて、ここ下りてからあちこち見てまわりましたら、いっぱい散らかっておる訳です。これはひょこっと見えるお客さんの場合はです、そのまま見てもらうより他ないけれども、お客さんが見えると言う事が分かったらやはり片ずけたり、お掃除をさせて頂いたりするのは。
これはもうそのお客さんに対する礼儀だと思いますねまあよかよかと、これは実意を欠いだ信心じゃないと私は思います。初めてのお客さんがみえると言うのですから、言うならちょっと行き届いた奉仕をすると言う前に、まあお屋敷のひとつもきちっとお掃除をする。まあお花のひとつも入れておく まあとっさの事で間に合わないならせめて玄関だけでも片ずけてきれいにしておく。私はそれがお客さまを迎える為のお客さんに対する礼儀である。又それが信心だと私は思う。
それで皆に申しましてから片ずけさせて頂いたり、お掃除をさせて頂いたり、又ここはこうしとけと言う、それは信心です。けれどもそのそんなら、結果がですまあだ掃除をしあわていなかった、言うた所をしていなかった、と例えば言う事があるかもしれません。ここは片ずけときなさい、ここは拭いときなさいと、例えば言うてもそれが出来ていなかったと致しましょう。
昨日はもう短時間の間でしたけれども、もうとに角余りに行き届いてすみずみまできれいであるのに、びっくりしたと言うてからお客さんに言うて頂く位でしたけれども、それはお客さんに対するところの第一の奉仕だと思う。それから真心のこもったお茶、真心のこもった食事時であるなら、食事でもさせてもらうと言うのが私は信心だと思うのです。信心とは何事にも真心になれよ。
神様に向かうと言う事は神様を拝むとか参ると言う事だけではない、そう言う事にも実意をこめる事が信心、何事にも真心になれよと。そんならそこも掃除しときなさい、ここも片づけときなさいと言うてそんなら、ここを下りて行って回ってみて、出来ていなかった致しますか、もうお客さまが見えると致しますか。そんな時にあんなに言うておったのにどうしてしないか、と言う事は私はこれは 我情我欲だと思う。
そう例えば言う事は信心だと思います、神乍ら神乍らで、そりゃ神乍じゃが、もう汚れ取る所も散らかっておる所も見られてもそれは仕方がない、それは分かっておらなければよい、けれどもみえると言う事が分かっておるならば、散らかっておる所は片づけておき、汚れておる所は拭いておくのが信心。それでそうしときなさいよと指図をさせて頂いておいて、それは出来上がってなかったとか、あぁあそこは忘れておったと言う所があってもです、それはどうして忘れたか。
どうして言う事を聞かなかったかと言うのは、我情我欲です。だからそこに忘れておったとかそこは仕上がってなかったと言うのは、そひにはそこに問題があるのですけれども、それを問題にしないで済むところに信心があると思うです。それにはですそんならそれを辛抱せんならん、俺が言う事聞かないと言うて辛抱せんならんじゃなくて、それを我情我欲、自分の思い自分の考えをです、とれば問題はなくなるのです。
その辺の所がね、我情我欲をとれば問題がなくなる、もう神乍にお客さんがみえると言うてもです、ありのままを見て貰う、それが成り行き等と言うような考え方は是は間違いです。出来るだけの事をそこに人情をやはり尽くさせて貰う、お客さんが見えると言うならそんなら早ようちょいとお掃除ぐらいしとかなきゃ、片づけときなさいと、それは我情我欲ではない、我欲ではないそれは信心なのある。何事にも真心になれよ、そのお客さんに対する所の、真心の現れなのであるだから信心でしょう。
その辺のところを間違いますとね、もうよかよか主義になってしまいます。それはもう掃除をしあせん、たとえ半分であっても、それだけは思いをお客さんに向けた事になるからそれは信心なんですよ。だからそう言う意味に於いての人情、これはいわゆる信心する者は何事にも真心になれよと言う事。それでいいですそんなら私が言うておった通りの事が出来ていなかったとする時にです問題が残っておったら、それはまだまだ自分の修業不足と思わなきゃなりません。
あげん言よったのに、どうしてしとかじやったのと、言うような問題がそこに残るような事ではいけません、それでいてそこにいわゆる、出来ておるだけの事それが神乍であります。神乍と言うのは人事を尽くさないと言う事じゃないのです。人事を尽くしたその上に神乍らと言うのは有るのです。もう一時が万事にです、そのような生き方なのです。いわゆるそこに問題が残るとしましょうか、そんならまだまだ自分の思いと言うものが貫かれなかった、自分の思いと言うものが叶わなかった。と、
言う事に対してです不平不足を言う様な事であっては、まだまだ問題になっておるのだから本当の事じゃない。けれどもそこのところをです、一つの焦点に置いて私共がまあだ自分の我情が我欲がとれてはいないなと悟らせてもろうて、我情我欲をとる事に務めさせて頂いたらよいのです。お取次ぎを頂いてお願いをした。お願い通りにならなかった、その右と願った事が左となったと言う事をです、そこのところがですいわゆる問題になり、その事をそんならおかげとして頂くと言う頂き方。
我情我欲をとれば問題がなくなる、私はもうこの辺の所をですねえ、合楽で稽古をなさる方はもう本気で稽古をなさらないとです、いけんと思うのです。どうしたら人事を尽くした上にそして問題が問題でなくなる程しの心の状態、そう言う心の状態を和賀心と言うのです。以前の自分ならこう言う時には、とに角やかましい事だった、だろうけれどもこのような心の状態にならして頂けたと言う事は有難いと思う心が、賀の心、所謂賀びの心、問題が問題にならない程しに心が豊かになってくる事が和の心。
ですからそう言う生き方の上にねそんならおかげがあると仰せられるのですから、そう言うおかげを頂き頂きです、こう言う生き方を身につけて参りますならば、これが間違いなく神に祭られ神になると言うおかげになってくるのです。そう言う生き方そう言う信心はもう人間でなからねば出来ないのです、牛やら馬やらはそう言う事はできません。私共が人間は万物の霊長であるからと仰せられます。
万物の霊長としての まづ自覚に立たして頂いて、只申しますように我情我欲をとれば問題はなくなると仰せられるのですから、その問題があるけれどもその問題を問題とせんで済む程しのおかげ、そう言うおかげを頂きたい、そのところを今日は聞いて頂きたい。それでそんなら成り行きを大事にする大事にする、とこう言うてもです、只人事を尽くさず成り行きを大事にすると言う事は、これは余りもの信心です。
そこで成り行きを願い成り行きを頂くと言うような事にも鳴ってくる、と同時にです、言うならばお客さんが有ると例えば電話がかかってきたらです、お客さんがみえるけんで玄関のところだけ片づけとってくれよ、お座敷も片づけときなさいよ、まあそこには花の一本もさしなさいよ、と指図をする、それが信心する者は何事にも真心になれよと言うのは、そう言う事だと言う意味の事を今日は聞いて頂いた。
そこんところを、よかよかと言うような、生き方は信心じゃないです、怠慢です。それは実意がないです、来客に対するところの、真心が表してないです。神様の前だけじゃない生活の全般、お互いの持ち場立ち場の、その場に於いての、信心がなされる事を教祖は教えておられる、そこを、信心する者は何事にも真心になれよと、そげな人間心は使わんでよかがと、これは私は怠慢だと、そこはしっかり、人間心を使わせて頂く事が、真心であり、人間心を使わせて頂く事が真心であり。
人間心を使わせて頂く事が真心になる事だと思うのです。それでいて尚かつです、そんなら掃除をしあわせなかったとか、私の言う事聞いてなかったとかと言う時に、あげん言うとったのに、どうして片づけとかじやったか、と言う様な事であればそこに問題がある訳です、問題になる訳です、例えばそれは片づけていなかってもです、もうそこではですもう神乍です。例えて実例を申しますなら、末永先生に私が玄関の方をきれいに片づけときなさい、若先生達の部屋に行って赤ちゃんを見にも、みえるのだから。
必ずここえみえるだろうか、ちよっと片づけときなさいよ。上野先生に客間の襖のすべりがどうも悪くなっとるからロウか何かぬってからすべりをようしときなさい、香のひとつもたいときなさい、家内 にはお客んが何人見えるから、勝手の方は何かみつくろうて夕食でも差し上げられるように準備をしておいでと、こうまあ言うて回っております。そして私は又ここえ座っておる。それでここえ間もなく見えられました、そこで私もすぐここを立たして頂いて、なる程私が言うておった通りの事が出来ておった。
出来ておったから有難かったんですけれども ああよかったとこう思うんですけれども、もしこれが出来ていなかったら、あげん言うとったとに、どうしてしなかったかと、言うたらそれは我情です我欲ですと言うのです。 私が言うて回ってして回ったと言う事はです、これは決して人情でも人間心でもない、何事にも真心になれよ、初めてのお客さんを迎える為のそれは真心だと言うのです。
それでいて尚且つそんなら不行き届きであったと言うのはです、それこそが神乍らなのであります。だからここはこげん汚れとるじゃないの、ここは何もしとらんたいと言うのじゃない、もう実に日常生活の中にもうたくさんある事だと思うのですよ、そう言う事はですからそう言う何でもない事の中に、私共真心にならせて頂いて、問題が問題にならない程しの心を我情我欲をとれば問題はなくなる。
そこで問題が有るならば、自分の我情であるな、自分の我欲であるなと悟らせてもろうてです、その我情我欲をはずしていく事に精進させて頂くと言う事がです、万物の霊長でなからなければ出来ないと言うのであります。牛やら馬やらではそう言う事は出来ない、思いも出来ない人間だから出来る。だからそこの所をおろそかにして私は神に祭られるとか、神になるとか言うような事は、それは一生朝参りを続けたって、出来るものではないと言う事。例えばそれは問題である。
例えばそんなら昨日の今申しましたように、玄関をきれいにしときなさいと末永さんに言ったと致しましょうか。ところが下駄はこうやって庭は汚れておる、下駄は散らかっておったとしましょうか、あげん言うとったつにどうしてしないか、と言うような事ではです、自分に我情があると悟らにゃいかんです。そしてそれはそうであってもです、もうそこんところはです。言わばその時点でです、例えばお客さんがまあここは何と言うろくそな事じゃろと思い なさっても思われてもです、それは仕方のない事。
それは自分の不徳と思わなきゃならない、例えばそこに末永さんを責めると言う事は我情であり我欲である。これはまあささいな事ですけれども、もう一事が万事にその通りです、いわゆる信心する者は何事にも真心になれよと言う事はもう一日中、四六時中がそうなのです。そこに自分の我情、自分の我欲が出ておるところを気付いたところにです。これは自分の我情だなと、そこんところを改めていくと言う稽古を、繰り返し繰り返ししていくうちにです。
私は『疑いを離れて広き真の大道を開き見よ、我が身は神徳の中に生かされてあり』と言う御教があるのを昨日ここんところを頂いて、我情我欲を離れて真の道を見るならばそこに我が身は神徳の中に生かされてあり、と言う事実を体験する事が出来ると昨日は感じました。この御教を頂いてそう言う言わば精進こそがです、そんなら神になり神に祭られると言う事を楽しみに信心せよと言う事は、そう言う例えば神さまになる事なる事、神さまに祭られる事と言うのではなくて、日々の生活の中にです。
自分の心の中から我情我欲がとりはずされていく段々我情我欲が少なくなっていくと言う事が楽しいと言う事なのです。そう言う焦点を間違いなくそこに置いて、日常生活をさせて頂けるところにそう言う生き方でいくなら、間違いなく神になれる事になり神に祭られるおかげが受けられる。普通で言うなら問題が問題になる所をです、それを問題にならない程しの心を、和賀心と今日私は申しましたが、その和賀心におかげがあるのですから、そのおかげも頂き頂き、そう言うおかげが言うならあかぬけしくる。
そう言う有難いおかげを頂きながら愈々神になり神に祭られると言う事に、近ずかして頂くと言う事は、なんと楽しい事であるかと言う事になる。自分の思いの中からです、自分の思いがとれていくと言う事、我情と言う事はあげんあるとよかばってん、こげんあるといいけれどもと、そう言う思いがとれてくる。と言うてそれをそんなら神乍らに、只黙って見ておくと言うのじゃなくて、人事だけは尽くさせて頂いてです、尚且つその後にその所の時点を問題なしに受けられる様な心の状態をです和賀心。
是におかげの頂けない筈がない、同時にそれが神に祭られ神になると言う事ですからそれが信心とは楽しい事になってくる。その楽しい信心をです私共が只おかげを受けると言う事だけに楽しいものではなくて、日常生活の全ての上に何事にも真心にならせて頂くと言う事が、楽しいと言う事になってこなければならん事になってきます。44節はそう言うふうに頂かせて貰うて為には先ず、昨日から申しております様に万物の霊長としての自覚、霊長としての値打を発揮しえなかったらそれはもう霊長じゃないのですよ。
霊長としての霊徳をそう言う光を放つ事が出来る時に初めて霊長としての値打がある。牛やら馬やらがいかに研いた所で、そう言う霊光を放つ事はできません。是は人間だけなんです。人間だけは神様はそう言う本気で人間が本心の玉を研いていくと言う事に、精進する事によって霊長としての値打を現し値打を発揮していく事が出来る。そう言うおかげが受けられるのが人間だと言う自覚をもってです、信心する者は何事にも真心になれよと言う、信心に楽しみが湧く程しの信心生活をさせて頂きたいですね。
どうぞ。